2012年01月02日
サム・リヴァース死去
Sam Riversが2011年12月26日に亡くなった。享年88歳。遅咲きの彼。でも、1970年代には、テナーサックス、ソプラノサックス、フルート、ピアノを一人でかき鳴らし、1990年代からはビッグバンドで高らかに謳った。ずっと、アヴァンギャルドで、優しかった。わたしにとって、本当にスーパースターだったのだ。合掌。
![]() | Live Sam Rivers Grp Records 1998-10-06 |
投稿者 slowlearner : 12:13 | コメント (0)
2008年08月17日
韓国調査
8/12(火)~8/16(土)にかけて、韓国における若年者雇用問題のインタビュー調査。日本・韓国・台湾の若者問題東アジア比較プロジェクトの一環だ。今回は、ソウル市江西区青少年自活支援機関(延世大学)、失業克服財団、希望庁、労働部青少年雇用局、ソウル市立青少年相談支援センターを訪問。いろいろと資料も集まり、韓国部分は何とかなりそうだ。
ただ、ハングルをどうするか・・・やはり一次資料は少しでも参考にしたい。
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インタビュー調査が終わった後、恒例のアート探索。今回も時間がなくて、あんまり行けなかったが、いいタイミングの企画展があった。
Sungkok Art Museumでは、「Chuck Close Prints」展。おもしろいんだけど、いまひとつドットは苦手だ。
Seoul Museum of Artでは、「Korean Abstract Art: 1958-2008」展が開催されていた。抽象絵画が好きなわたしとしては、本当にうれしかった。韓国における抽象絵画の歴史をたどっているようで、とてもおもしろい。ただ、残念なのは、説明がすべてハングルなので、一切解読不能・・・。軍事政権下での抽象絵画など、興味は尽きないけど。
若年者雇用調査をこのまま続けていけば、各国のアート事情が少しは分かるかもしれない。いずれはそんな調査ができないかなぁ。
投稿者 slowlearner : 10:41 | コメント (0)
2008年02月08日
BRUTUS 2008年 2/15号
![]() | BRUTUS (ブルータス) 2008年 2/15号 [雑誌] マガジンハウス 2008-02-01 |
久しぶりに購入。
ジャッドのマーファ記事と、現代アートクロニクルがよかった。回顧して、知識にしろいろ漏れがあることを発見。
あと、アート参拝の意志を再確認した。ジャッドのマーファ、ロスコのチャペル、タレルのローデン・クレーター、そしてマティスのロザリオ礼拝堂には、死ぬまでに行く。
10年後を目指して、コミュニティ・アート論を書きます。前半は、ちゃんとグリーンバーグ以来の美術理論の検討をして、後半はフィールドワークの力技で書きたい。
2008年の予定として、
1.大学の『社会学入門』枠を使って、「コミュニティ・アート試論:記憶する美術館から忘却するまちへ」というタイトルで、1回授業をする。本当に、できるのだろうか・・・
2.ゼミのインタビュー実習で、今年はアートに携わっている方々にインタビューする。
まじなのである。
投稿者 slowlearner : 11:16 | コメント (0)
2007年08月19日
ETV特集「日本人と自画像~東京芸術大学 4800枚の証言~」
今日のETV特集(NHK)は、「日本人と自画像~東京芸術大学 4800枚の証言~」だった。なんだか、とても感銘を受けた。
有名画家の「自画像」から、無名画家のものにいたるまで、その160点の作品は、単なる良し悪しを超えて、とても魅力的だったのだ。
一つには、画家のもっとも若き日の作品は、あまりにも自意識過剰で、あまりにも繊細で、あまりにも攻撃的で、そのため見る者自身に「在りし日の記憶」を無理やり思い起こさせる。
もう一つには、明治31年から平成18年にいたる連綿とした「自画像」の軌跡は、ゆるやかな歴史の流れを思い起こさせる。つまり、「自画像」に刻み付けられた意識すら、ある歴史的存在にすぎないのだ。歴史のなかに埋没する一人ひとりの姿。日本社会の変化もあれば、個人の変化もあるだろう。
このように見てくると、「自画像」の奇妙さに改めて気づく。いったい、何のために描かれたのか。それよりも、あくまでも他者であるわれわれにとって、他人の「自画像」は何なのだろうか。
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「自画像の証言」展は、2007年8月4日(土)から9月17日(月)まで、東京藝術大学大学美術館陳列館で開催されている。
ぜったい見に行こうと思う。
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ちなみに、3ヶ月ぶりのエントリーで緊張した。
投稿者 slowlearner : 23:30 | コメント (0)
2006年02月16日
sensibilia / the museum of modern art, SHIGA
わたしの原点である滋賀県立美術館で、おもしろそうな企画がある。
かつてのジョナサン・ボロフスキー展とか、ドナルド・ジャッド展とか、本当におもしろかったなぁ。アメリカの現代美術やポップアートを多く収蔵していて、そのおかげで現代美術好きになったように思う。
ぜったい行く。
★sensibilia センシビリア
~所蔵品によるある試み~
ソフトパッド+滋賀県立近代美術館
2006年2月11日(土)~4月2日(日)
本展は、滋賀県立近代美術館の現代美術のコレクションと、関西を中心に国際的に活動しているアーティスト・ユニット、softpad(ソフトパッド)とのコラボレーション(協働)による展覧会です。映像、デザイン、サウンドなど様々な領域で柔軟な活動をみせるsoftpadが、印刷物から展示構成にいたるまで、展覧会というひとつの知覚体験をトータルに演出します。
“センシビリア”とは「感覚によって認識できるもの」という意味です。当館が誇る、主にアメリカを中心とする戦後美術のマスターピースたちに、 softpadが音響や映像など様々な表現手段を用い、斬新な角度からアプローチすることで、知識に頼るよりも、むしろ美術作品との感覚的な出会いの場を提供します。
個々の作品のみならず、それは滋賀県立近代美術館の潜在的な魅力をも掘り起こし、光を当てることになるでしょう。
投稿者 slowlearner : 15:09 | コメント (0) | トラックバック
2005年10月24日
横浜トリエンナーレでつれづれ思った現代アート
23日(日)午後からは、これ以上ないという秋晴れのなか、横浜トリエンナーレに行く。そこで、ぶらぶらと作品を見たり、長いあいだ休憩しながら、現代アートについてぼーっと考えた。
一つは、このようなサイト・スペシフィックなイベントが、アートになっているんだなぁと、いまさらながら再確認。場所が、港、それもだだっぴろい倉庫を活用しているので、日常生活とは違う「崇高」な感じはする。それはそれで心地よいことは事実で、確かに「おもしろい」。
でも、はたと思ったのは、この「おもしろい」っていう言葉は、アートとしていいんだろうか。というのも、作品をすべてじっくり網羅・吟味したわけではないけど、どうも作品から受けるインパクトは薄いのだ。「おもしろく」はあるけど、それはあくまで「おもしろい」であって、それ以上のものではない。その原因は、やはり作品そのものがイベントの中心にないからだと思う。もうちょっと正確に言うと、作品のよしあしに対する評価軸が感じられない。
どういう作品が良くて、どういう作品が良くないかということを明示することは非常に重要なことだとわたしは思う。私のような「伝統的美術館中心主義」こそ、悪しき伝統主義なのだと感じる人もいるのは分かる。確かに、サイト・スペシフィックなイベントが増えたり、ワークショップ形式の試みが増えることはいいことだと思う。だが、それは、あくまで作品を供給する形式の問題であって、作品そのものの良さには関係ない。もちろん、サイト・スペシフィックな作品が最初に出現したときには、そのあり方そのものが一つの作品の「よさ」を構成していたが、現在のそれには、作品の「よさ」に対する判断が欠けているように思えてならない。その象徴的な言葉が、「おもしろい」で、やっぱり「おもしろい」という評価はあまりにも失語症的にすぎるのではないか。
私自身は、確かにかなり教条的な考えを持っている。近代アートは、やはり抽象絵画に一つのメルクマールを持っていると思っていて、グリーンバーグの歴史的解釈に賛同する一人だ。
なので、近代アートの面白さって、
マネ
マティス
ロスコ
ディーベンコーン
ジャッド
なんかのラインで考えてしまう。逆にいうと、抽象表現主義のあたりで思考が止まるという限界があったのも事実だ。
で、この発想のブレイクスルーになったのが、ジェームズ・タレルだった。
抽象絵画を極点とする現代アートは、芸術作品そのものを志向した結果、いわば作品を成立させるメディウム(絵の具、キャンバスなど)の存在を発見していったと言える。この過程は、おそらく意図せざる結果だろう。ただ、それによって、マテリアル中心主義になっていく。
だが、タレルの作品は、そのマテリアル中心主義の裏をついて、いわば作品を成立させる知覚そのものを浮き彫りにした。つまり、見るという知覚は一つのプロセスであって、必ずしも一瞬一瞬はっきりするもではなく、時間を内在させたものである。
タレルは、一貫して、アートの基盤を知覚においているように思う。知覚には、視角だけではなく、聴覚も大きく影響するだろう。見るものと見られるもの、あるいは聞くものと聞かれるもののあいだに広がる広大な領域が、アートの舞台になる。
いま、マネを端緒として、抽象表現主義を経由しながら移行してきたアートの流れを、勝手に「ポスト・ヒューマンの可能性」として考えていて、現代アートにおいてもっとも中心的な舞台は、知覚の拡大だろうと思っている。
ただ、知覚の拡大は、やや手間がかかる。というのも我々は、容易に見ることに慣れてしまっているので、視覚をテーマにすると、まず「見えないこと」を条件付けながら、「見える」ようにしなければならない。そのため、もっとやりやすい手法は聴覚を使うサウンドスケープだと思う。特に、サウンドスケープと視覚のズレを利用することで、知覚を広く作品に適用できる。
実は、そのとき、あまりにも機械的に運用してしまうと、われわれの知覚の許容範囲を超えてしまい、それはノイズに過ぎなくなる。そこで、知覚の撹乱をセーブするのが、われわれの記憶、つまりはノスタルジーなのだ。
グリーンバーグは、「アヴァンギャルドとキッチュ」を書いたけど、わたしは「知覚の分散とノスタルジー」っていうのを考えていきたい。これこそ、卒論『絵画と現実』の続きなのだ。
★リー・ウーファンの展覧会@横浜美術館に時間がなくて行けなかった。残念。
★ゲルハルト・リヒターの展覧会@川村記念美術館をやるらしい。楽しみだ。けど、遠い・・・

